願勝寺(檀家600)
701年に維摩寺として建立されたが、この後、福妙寺と称され、保元の乱において讃岐に流された崇徳上皇が亡くなった時、それを弔うために京都で菩提寺を建てることが叶わなかったので、阿波内侍(妻)が、福妙寺を1164年に願勝寺と名称を変更して菩提寺とした。開基は僧行基によるとの説もある。
(阿波内侍の碑が大師堂の南にある。)
江戸時代には、京都御室大本山仁和寺下の中本寺として、半田神宮寺・八千代多門寺、貞光万福寺を末寺としていた。
本堂は、1716年(享保年間)の建立、大門は江戸時代末期に建立され、両側に阿吽の仁王が立ち、門の柱に彫刻がされているといった珍しい門である。鐘楼も同時代のものと推察され昔の面影があるが、庫裡は平成2年に、大師堂は平成21年に建設されたものである。
本堂前庭の松は、仁和寺宮嘉彰親王の命名による「臥鶴之松」の二代目で、本堂裏には、南北朝時代に造られた京都の天龍寺と同じ様式の枯山水があり、徳島県指定名勝「願勝寺庭園(枯山水)」で、四国で一番古い庭園である。その築山頂上に弁財天女を祀る奥の院がある。
大師堂の前にある君田霊祀は、明治維新の功労者、正五位美馬君田の霊を祀っている。
境内の北東にある博物館は、昭和32年に建てられた徳島県第1号の博物館で、郡里廃寺等の文化財を展示している。
※白鳳時代・・・645年の大化の改新(天皇制の確立)から710年の奈良遷都(平城京)までの65年間を言う。
※保元の乱・・・1156年に鳥羽法皇と崇徳上皇が後継者等で争い、崇徳上皇が敗北し、讃岐に流される。
※南北朝時代・・室町幕府が1333年に開かれ室町時代が始まる。1336年から1392年までの56年間、京都の光明天皇と吉野の後醍醐天皇が争っていた。
安楽寺(檀家700)
平安時代に真如寺という天台宗の寺院であったが、鎌倉時代中期、正元元年(1259年)に、上総・下総の国(千葉県)で、千葉一族が北条時頼に滅ぼされ、運良く助かった千葉彦太郎常重は、地縁の重清城主の内室を頼ってこの地に逃れて来た。そこで、廃寺同然であった天台宗の真如寺を浄土真宗に改宗し、安楽寺が誕生した。
江戸後期までは、84ヶ寺の末寺と8ヶ寺の勤番寺を持っていたが、離末を行ない、その離末金で現在の赤門が建立されたと伝えられおり、安楽寺は通称「赤門寺」と呼ばれている。
この赤門は、桁行8.09m、梁間5.13m、入母屋本瓦葺の三間三戸二階二重門で、宝暦6年(1756年)(※8代将軍吉宗の享保13年、1728年の説もある)に建立されたもので、徳島県の五大門(丈六寺、熊谷寺、高越寺、箸蔵寺、安楽寺)の一つである。
山門の入り口には、鬼の彫刻があり、そこを抜けると裏には蓮の花が彫刻されている。外は地獄で、中は天国という意味である。
また、本堂は、昭和3年に工事を着工し、昭和13年に完成をみた。この工事に関しては、重清出身の満州の実業家であった藤川類蔵氏の3万6千円(現在の金額では約12億円)もの寄付により建設されたもので、最終的には、壇家の寄付などにより4万5千円程の費用がかかった。天井、廊下、柱、全て欅で造られ、阿弥陀如来を拝仏する正面の御簾がかかっている3カ所は法衣を来た者しか入れず、その正面の天井には、中堀真二氏が描いた水の神である龍の絵が飾られており、現在、襖、障子にも、作品の制作に取り組んでいる所である。
書院は、大正14年に建立され、能舞台は、平成7年に建てられた。この能舞台は、正面に松の鏡板があり、舞台との間に笛、小鼓、大鼓、太鼓が配置となり、笛柱を挟んで謡(4~5名)が配置される。仕手方は左奥の仕手柱から入り、唯一狭抜きが中から見える目付柱を確認しながら踊る。脇役は、右手前の脇柱の所に待機する。この3間四方の舞台は、柱も床も檜(ラオス産)で作られ、床の厚さは4.5㎝、床の高さ1.8mで、大谷焼きの亀が5個床下に置かれ、音響効果を大きくしている。こういった本格的な能舞台は、徳島県下唯一のもので、毎年、6月には狂言、10月には能を行ない、中学生に無料で鑑賞させるなど、日本の伝統芸能の保存継承に尽力している。
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