郡里廃寺跡について
今から1350年程前、大化の改新が行われた頃、この美馬の地は、佐伯氏という豪族が支配しており、郡衙が置かれるなど、徳島県西部(美馬・三好)地区の中心は、寺町のある美馬郡里であったことから、粟の国、長の国、美馬の国の阿波3国説が有力である。 その郡里の中心である現在の中山路地区には、立光寺(郡里廃寺)という奈良の法隆寺に匹敵する寺があった。敷地面積2万㎡、南大門、中門を入ると、右側に五重塔、左側に金堂があり、正面には講堂を配した法起寺式の大伽藍であった。 飛鳥時代(白鳳期)に大和朝廷と同等の文化が栄えていたことから、美馬台国説の要因にもなっている。 隆盛を見たのも100年余りで、吉野川の氾濫や鍋倉谷川の増水等の天変地異や一族の内部抗争、また、新興仏教の出現による信仰の変遷により、8世紀後半には、栄華を極めた立光寺も廃寺同然となった。